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  • AutorenbildShigeyuki Miyagawa

鳩は西の空へ


、、その嘴にはオリーブの若葉があった。

ノアは地から水が引いたことを知った。

さらに七日待ったのちもう一度鳩を放ったが、

もはや彼のところには戻って来なかった。

旧約聖書 創世記8章



 オス鳩は、何が起きたのか分からないといった様子で痺れたように籠の中でじっとしていた。

今し方まで、私は糸を結んだ木の棒を握りしめ、辛抱強く物陰に息を潜めていた。

そしてそのオス鳩が、撒き餌に導かれて、傾けた籠の中に入り込むや否や、間髪入れず握っていた糸を引いた。支えを失った籠は勢いよくその口を閉じ、鳩はあっけなく囚われの身となった。

これで私は、一昨日からすでに隣の箱に虜となっているメス鳩とこのオス鳩をつがいで捕まえることに成功した。


 もうかれこれ数ヶ月前、地面は雪に覆われ凍りつく頃、この二羽は我が家のアパートメントの北向のベランダを自分たちの縄張りと宣言してしまった。そしてここを今年の巣作りと子育ての場所と決め込み、オスは得意げに胸を膨らませてリズミカルに呻き声をあげ、メスは小枝を運び込む事に熱中し始めた。

鳩の求愛と結婚はこんなに早い時期に始まるのだとその時知った。


 そもそも我が家のベランダにハトが居付くようになってしまったのには経緯があった。

彼らが占拠していたのは、ついこの間までは一つ下の階の住人のベランダであった。

下の住人はよほど無頓着なのか、はたまた殆ど家に帰ってこないのか、そこにはいつも何羽かの鳩が自由に出入りしていた。

いったいどうなっているのかと、身を乗り出して階下のベランダの様子を覗くと、もうはるか昔に張り巡らされたような、くたびれた鳩除けのアミがベランダ全体を覆っているのが見えた。そして破れた小さな穴から鳩が入り込み、図らずも他の闖入者を防ぐ、彼らのための安全で居心地の良い住居になっているようだった。

ベランダの床一面は羽やフンで隙間無く覆い尽くされ、鳩はその上を機嫌よく歩き回っていた。そしてベランダの角には、いつ息絶えたものか、死んだ個体が羽を散らして野ざらしになっているのさえ見えた。

そのように今までずっと鳩にベランダを占拠されていた階下の住人は、どういう心境の変化か、ある日突然鳩退治の専門業者を呼び、ベランダを隅々まできれいに掃除させ、雀一匹入り込む隙もない真新しい網を張らせてしまった。

 その結果突然行き場を失ったその鳩たちの内、このつがいが、そっくり一階上の我が家のベランダを次の住処と決めてしまったのだ。

 

 ある寒い朝、白く凍りついたベランダの花壇の一角に、あのハトが持ち込んだと思しき、青い若葉のついたほんの小さな枝が置かれているのを見つけた。それはまさに、ここにこれから巣を作ることを自他に示すシグナルの様に見えた。どこからか摘んできた小さな若枝をくわえて飛んできた彼女または彼を想像すると、旧約聖書の話に出てくる、大洪水を漂流し続ける方舟の元に小さなオリーブの小枝をくわて戻り、ノアに乾いた陸地の存在を知らせる鳩の姿が思い浮かんだ。

 それ以降鳩たちは、何度追い払っても、尖ったバーベキューの竹串をバリケードよろしく花壇にびっしりと突き立てても、こうと決めた予定を決して変えることなく、せっせと枝を運び込み、巣作りと縄張りの宣言に努め続けた。

そしてついには二つの卵を産んでしまった。

 当然のことながら、卵を産んでからの彼らはさらに本格的に居座りを始め、どんなに追い払っても舞い戻り、卵を温め続けることをやめなかった。

もはや目前の私の姿を恐れることもなく巣に飛び込み、器用にくちばしで卵を腹の下に掻い込み、羽毛を膨らませて居心地よく収まる彼らの姿を、私は半ば呆れ返りながらも、愛らしいな、と思いながら眺めていた。

そもそも私は鳩という動物自体に対しては何の嫌悪感も無く、ただベランダに所構わずフンをする事だけが問題なのであって、ここがどこか自然の中の一軒家であればこのまま好きにさせてやれるのにな、と都会の賃貸マンション暮らしを恨めしく思った。

 

 しかし動かぬ結論として、どうしたって卵をここで孵される訳にはいかなかった。この4階のベランダでピヨピヨと賑やかに繁殖されて、さらに数を増して毎年こられるようになっては困る。他の住民も、特に鳩を毛嫌いしている隣のヘビースモーカーの女性が黙っていない。

鳩としては十分に利口な彼らだが、人間側の私の事情、賃貸マンションだ云々、という事情への理解は到底期待できない。

かと言って彼らを寄せつけないため、何か痛い思いをさせるような事はしたく無いし、他の野鳥も時折立ち寄ることもあるこのベランダを、階下の住人のように網で覆うということはしたくない。

これらの事柄をしばらく頭の中にごっちゃに放り込んで置いて、思いついた解決策というのは、彼らに二羽揃って強制的に引越してもらう、という事だった。


 頭の中で思い描いた計画はまずこうだった。卵を抱いている為に動きが鈍い方をまず素手で捉える。その鳩を籠に閉じ込め、心配して様子を見に来るに違いないもう一羽を罠で捉える。その二羽を、我が家が野菜作りのために借りている小さな畑のある、町の反対側の東の郊外まで運び、そこで放す。

広い空と自然の広がるあそこなら、きっと彼らも人間に疎んじられることなく生活を始められるだろう、と考えた。

もう二つの卵は、今回は諦めてもらうしかないと思った。なぜなら以前、鳩が巣から動かされてしまった卵に対して、それが目の前にあるにもかかわらず、あっさりと興味を失ってしまうという光景を見た事があるからだ。それなのでせめて孵化に近づかないうちに早く計画を実行したかった。

 

 まずは計画通り、ベランダの花壇の巣に卵を抱きに現れたメス鳩を「シッ」と一度追い払った。私は素早く花壇のすぐ下の、死角でありながらしかも巣から非常に近距離に居られる場所に身を潜めた。そしてメス鳩がすぐに舞い戻り、再び巣に身を落ち着けた気配を見計らって、一気に立ち上がり両手を伸ばした。鳩は当然驚いて逃げようとしたが、思った通り飛び立つ動作が一瞬遅れ、私の両の手に囚われた。緊張して力んでいる私の手の中で鳩の体は暖かく、引き締まったしっかりした感触があり、羽は脂っぽかった。

私はその鳩を直ぐにプラスチックの籠に入れて蓋をして、さらに無理やり飛び出すことができないように重しをおいた。

 暗い籠の中を鳩は不安そうに動き回っていたが、時折取手の穴から頭を出してキョロキョロと辺りを見回したり、思い出したようにバタバタと暴れて抜け出そうと試みることを除いては、思ったよりも大人しく籠の中に囚われれていた。

 まだ暖かい卵が二つ、花壇に作られた出来損ないの巣に転がっていたが、私はそれを思い切って捨てることもできず、すまない気持ちがして籠に一緒に入れてやった。

 オス鳩の方はといえば、愛するパートナーの身を案じて直ぐに駆けつけ、籠にぴったり寄り添うに違いない、と踏んでいたが、結果は予想を裏切るものだった。

オスは確かにベランダに直ぐに姿を表したが、囚われの身になっているメスのことも、消えてしまった大事な卵のことも全く気にする様子を見せなかった。それどころか何の不満もないような落ち着いた様子でしばらくベランダをうろつくと、例のごとく胸を膨らませてリズミカルに呻き声を上げ始め、威勢よく縄張り主張のルーティーンに勤しみ始めた。その様子を観察していると、私は知らずのうちに鳩を「擬人化」して見ていたのかなと思い始めた。


 彼らは人間のような愛情で結ばれているわけではなく(人間だって怪しいものだ)、もっとドライで、お互い利己的な原理でパートナーシップを結んでいるのにすぎないのかもしれない、と思った。雄バトにとって一番の関心は自分の縄張りの保持であって、雌バトやら卵などは単なる付属品にすぎないかのようにすら思えた。おしどり夫婦などと仲の良い夫婦の代名詞のように言われているオシドリだって、実際のところは同じようなものなのかも知れない。


 多少予想外の状況ではあるものも、ともかく私はこの雄バトを捕らえるべく計画の実行に移った。方法はもちろん最もシンプルで古典的で、元手もかからない手段、つまり鳩が入れるくらい傾けた籠を紐を結んだ棒で支え、中に誘導するように撒かれた餌に鳩が釣られて籠の中まで侵入したところで、離れた所から紐をひいて籠を落とし、鳩をとらえるというものである。私にとっては初めてのチャレンジだが、古今到来、星の数ほどの鳥たちが人類によって捕えられてきたであろう方法である。


 材料を揃えて罠を仕掛け、紐を握って待ち伏せている時、私は自分が不思議なゾクゾクするような高揚感に包まれているのを感じた。これから自分の手で獲物を捉える(食べるわけではないが)緊張と興奮。生き物との知恵比べ。もはや我が手中にあり、という生き物に対する優越感。

今回の私の相手は何の危険もリスクもないただのベランダの鳩だが、それでもほんの束の間、失われかけた本能に刷り込まれた、生き物を狩る歓びを揺り動かされたように感じた。


 画して、つがいの鳩は私の手中に落ちた。

狩の満足とは裏腹に、メスバトの方に一緒に入れてやった二つの卵が無惨にも彼女自らによって踏み潰され、散らばった殻とどろどろの汚物と化してしまっているのを見て、私はやるせない気持ちになった。

気持ちを晴らすためにも、早速計画通り二羽を郊外の畑まで運ぶため出かけることにした。

暗くしてやれば大人しいのではないかと考え、彼らを通気を考慮しつつ紙袋に入れ、さらに大きなカバンに入れて路面電車に乗り込んだ。

車内はそこそこ乗客がいたたため、カバンの中で暴れたり鳴き声を出さないか気を揉んだが、およそ40分の道中、時折体勢を直しているかのようにガサガサと動く以外、彼らは全く大人しく静かであった。

途中バスに乗り換え、緑豊かな静かな住宅街の停留所で下車し、さらに草むらの畦道を歩き、我々は無事、大きな空の広がる畑に到着した。


 そっとカバンの中を覗くと、暗がりの中で彼らは案外居心地良さそうに蹲ってキョトンとした様子で首を傾げていた。

外の明るい景色を見るや否や一目散に飛び出すかと思いきや、紙袋の口を大きく開け放ってやっても彼らは一向に出て来なかった。

仕方なく私は紙袋に手を入れ、まず一羽をつかみ出して空に向かって放り上げると、その鳩は途端に力強く羽ばたいて上昇していった。

続いて二羽目もつかみ出し放り上げると、二羽目も同じくたちまち力強く上昇していった。

二羽は上空でまるで申し合わせたかのように合流し、はるか私の頭上で何度もぐるぐると円を描いた。

そして最後の弧を描いた後、コンパスに導かれるように、迷うことなく青い空を西に向かってまっすぐに翔んでいった。

私は穏やかな日の差す畑に立ったまま二羽が小さく見えなくなるまで見送った。


彼らが飛び去った西。

それは私のアパートメントがある方角だった。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  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